人間の付き合いというものは、自分自身が相手をどこまで許容できるか?という点につきるのだろう。
逆に相手に自分がどこまで許容されるか?ということでもある。
人によっては「なんでも許容するよ」という人がいるかもしれないが、それは相手の意思を無視しているということでもあり、相手の意思を積極的にきかないという「何も許容しない」ということとイコールである。
この相手を許容する、相手に許容されるということが、人の付き合いというものだ。
私は草野球をやっている。また子供の少年野球にもサポーターという位置づけで関わっている。野球というものはチームでやるスポーツだ。チームでやる以上、チームメンバーとの人の付き合いというものがうまれる。草野球にもいろんなタイプのチームがあるが、共通して言えることは以下の2つくらいだろう。
- 野球が好きだからやっている
- 野球をやることがお金を稼ぐという意味で生活を支える手段ではない
それ以上のことは、チームのメンバーが相互にどこまで許容できるか?ということに尽きる。
- 練習を休むことを許容するか、しないか
- サインミスを許容するか、しないか
- エラーを許容する、しないか
- 打てないことを許容するか、しないか
- 走るのが遅いことを許容するか。しないか
- 声を出さないことを許容するか、しないか
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などなど言い出すと切がないし、各々にも様々な事情があるであろう。
だからこそ、チームとしての大まかなライン(方針)を定めて、メンバーに示す存在が必要になる。それがチームの中心人物である部長、監督、主将の役割なのであろう。そういった役割を担った人が、チームの許容のラインを示しているチームは清々しいし、楽しく野球できるであろうし、強くなる可能性を秘めている。
逆に部長や監督、主将がそういったそのラインを示していないチームは、危機と認識すべきだ。そういったチームでの活動からはほぼ得られるものがないであろう。毎度同じ練習をして、同じような試合をして、同じような反省を繰りかえす。コミュニケーションも同じような内容になるだろう。
どうすればそういった状況を脱することができるのか?絶対的な解はないが有力な候補は人事なのだろう。人は大人になればなるほど、変われない。たとえ変わろうという意志があったとしても変われないことがほとんどだろう。だからこそ人事なのだ。ただ新しい人になっからすぐに良くなんていうのは幻想でだ、新しくその役割に就いた人が先に示したチームのラインを示し、チームメンバーが共通認識を持って活動できるようにもっていけるか?すべてはそれにかかっている。
野球を例に人の付き合いを考えたが、広くは"仲間うち"という意味あいになるだろう。その仲間うちで許容ラインに対して共通認識をもって活動できる、清々しい人付き合い、コミュニケーション、発展性が見えてくるのかと思う。
人付き合い、草野球だけでなく、非営利団体の活動、会社の活動、すべてに共通することでもある。引き続き試行錯誤してみようと思う。
というようなことを考えた週末でした。